人間の適応力とはかくも恐ろしきものなのか、あれだけ絶望的に思えた工程も一週間もしないうちに何とかこなすことが出来るようになるのだから自分自身ただただ驚くばかりである。
一応限界を考えて割り振られた作業工程ではあるのだろうが、だとすればどれだけ有能な人間が考えているのだろうか。とにもかくにもこうしてバネ指以外然したる問題もないまま僕の期間工生活はレールへと乗った。いや、ラインに乗ったという方がこの場合相応しいのか。
しかし、そうでない人もいた。
「いや、俺の工程マジでキツいわ」
この頃、同じホテル住まいという事もあってか野呂さんとは仕事が終われば一緒に帰るようになっていた。その際散々愚痴は聞かされていたのだが、それでも経験者であり僕から見れば大人の男性である。そして野呂さん自身兄貴分のようにも振舞っていたし、まさかそんな人が二週間で逃げ出すとは思いもしないだろう。
「おい戸邊、野呂が来てないんだが何か聞いてないか?」
ある日突然作業中に田原さんがやってきて、聞けばどうやら無断欠勤らしい。ライン作業は各人割り振られた持ち場があるため一人欠けると必ず誰かが穴埋めをしなければならない。大体そういうときは課長やそれに準じる全ての作業を出来るベテランが代わりをする事になるのだが、そういう人材は普段は作業が遅れた人の手助けをする「浮き」と呼ばれるお助けポジションにいるため、突然の無断欠勤で穴埋めをしなければならない場合地獄が待っている。
つまり、お助けキャラである「浮き」がいなくなるのだ。ただでさえギリギリの工程を、サポート無しで一人で頑張るしかなくなる事がどれほどのプレッシャーか…
「ちょっとー!ライン止めてー!」
怒号と共にミッキーマウスのテーマが流れる。これは僕らのいた工場内でラインを停める緊急停止ボタンを押した際に流れるものだが、その間の抜けた音楽とは裏腹に現場はてんやわんやである。基本、ラインは止めない方向で社は進めたがる。当然だ、ラインが止まればそれだけ生産が滞る。生産が滞れば計画台数に達しなくなる。計画台数に達しなければ残業乃至休日出勤を余儀なくされるわけで、結果としてコストが増大するのだ。
そんな時のために本来は「浮き」を配置しているわけで、誰かの遅れが伝染し、つもり積もってどうにもならなくなる前に浮きが作業を補助する事でラインは正常に回っているのだ。そういう貴重なお助けキャラがいなくなったらどうなるか…
「おい、ライン止めろぉ!」
「またか?何とかしろよー」
「ちょっ、無理っ、停めて!」
方々で怒号が飛び交うのは自明の理である。
しかし最初の頃は僕はその非日常感を楽しんですらいた。既に工程を一人でこなせるぐらいになっていたのも大きかったし、まだミスも許される立場だったというのもあるだろう。
「おい、戸邊。野呂は今日も休みか?」
「え、ええ…」
だが、二日三日と無断欠席が積み重なっていくにつれ非日常は日常へと変化して、段々とそれは不満へと成り下がる…
実は二回目に無断欠勤した日の夜、買い物帰りにばったり野呂さんと出くわしていた。そのとき野呂さんは近くにわざわざ駐車場を借りて持ってきていたマイカーに乗る瞬間で、僕を見つけバツが悪そうにこう話し掛けてきたのだ。
「ちょっとな、近くに女が来とって。色々面倒なんよ」
「そうなんですかー。なんで田原さんに言ってないんです?心配してましたよ」
「アホゥ、こんなん何て言えばいいねんって話やろ。まあ明日からは普通に行くから、これは言わんといてな」
「はあ」
事実、翌日は出勤してきたものの、二日ほど来てまた休み、週が明けてまた休み、そしていつの間にか野呂さんはいなくなっていた。辞めたと田原さんが教えてくれたのはちょうど二週間が経とうという週末の事である。
「あいつ、やっぱり辞めたよ。父親が病気とか言ってたけど十中八九嘘だろうな」
「えっ、僕は女とトラブってるって聞いてましたよ」
「なんだそりゃ。まあ、そういう事だな」
「……」
その後、すぐさま野呂さんの配属された位置には新たな期間工が補充されるのだが、彼は全く辛そうな素振りを見せずに結局最後まで勤め上げていた。
今にして思えば期間工経験者というのも本当なのかどうか…
『期間工には変なやつが多いから気をつけろ』
こう教えてくれた人こそが一番最初にバックれるという、まるで自身の台詞の証明のような出来事。一番最初に仲良くなった人からしてこれである。いくら世間知らずのガキんちょでも、ここがちょっとおかしいなと嫌でも感じ始める事件であった。そういう意味では最初にこの人を知れたのは意識改革という点では幸運だったのかもしれない…
第九話へつづく。
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