慣れてしまうとあれだけ大変だった、不可能にも思えた工程がさほど苦ではなくなってくる。人類の限界を計算しつくしたギリギリの作業だと思っていたが、次第に他人を助ける余裕まで出てくるのだから我ながら驚くばかり。
当然そんな状況では疲れ方も前に比べて断然軽く、財布は前よりも重く、そして気持ちはやっぱり軽い。ようやくこの生活が軌道に乗り始めたと思えた頃だ。
だが古今東西落とし穴?はこんな時に用意されているもので。
さて、余裕が出来るとこれまで気に掛からなかった様々な事が見えてくるようになる。
(隣、うるせえな)
段々とビジネスホテルの隣の部屋の話し声が気になるようになってきた。というのも、このビジネスホテルは恐らく格安ホテルの部類なのだろう、設備のボロさも建物の古さも全てにおいて逆一級品であり、壁の薄さも例外ではなかった。
元々寝るためだけの場所なのだからそれ自体は構わないのだが、だからこそ基本的に人が集まり談笑するようには想定されていないはずである。
毎夜のように隣の部屋に人が集まり談笑している様に日々苛立ちが募るようになっていったのはこの頃だ。逆に言えばどうして今まで気にならなかったのか。
或いは野呂さんや以前コインランドリーを巡ってトラブルがあった暴力男など、期間工という特殊な人々に触れていくうちに段々と図太くなってきていたせいかもしれない。
(それにしてもこんな世界でも友人関係というのは出来るんだな)
隣の部屋には少なくとも三人ほどがいるようで、そもそもにして野呂さんの言葉を借りるなら「変人ばかり」の期間工同士がつるむ事自体が珍しいはず。よほどの人望の持ち主なのだろうか?それはさておき、野呂さんをして変人と言わしめる人達がつるんだときどういう事が起きるかと言えば想像に難くないわけで…
そうしてここがポイントなのだが、隣の人と自分の勤務番は逆である。逆と言うのはとどのつまり、早番(6:30~15:15)と遅番(15:05~23:30)というわけで、僕が早番に備えて眠りに付く23:30過ぎに、遅番を終えた隣人達の宴会が始まるわけだ。
自分が遅番のときは気がつかなかったが、勤務番が逆転して三日目でとうとう堪忍袋の尾がキレた。
──ゴッ!!
壁を、思いっきり殴った。
薄い壁を殴った。24時33分という理由だけではない静寂が辺りを包む。談笑がピタリと止み、一瞬で空気が張り詰めたのがわかった。
(これで少しは大人しくなるだろう)
まだ若かった。静寂はイコールそういう事だと思い、何よりも自分より年上の人々だ。この一撃で全てを悟り反省してくれたと、そう思いベッドに戻ろうとしたそのときだった。
──ゴッ!!
──ガッドンドンドン!!
一瞬、わけがわからなかった。まさかという思いが思考を停止させ、一瞬の間の後にこの異常事態に気付く。
まさか、である。壁を殴り返してきたのだ。それも一発ではなく二発、三発。そして再び聞こえる笑い声。
自らの認識が甘かった事を思い知るには十分すぎた。眠気も吹っ飛ぶ。そうだ、ここは魔窟。はみ出し者のパラダイス。きっと真にまともな人間なんて一人もいやしない。
思わぬ報復に即座に隣の部屋へと殴りこみに行く自分も、何時の間にか魔窟の住人となっていたのだと、このとき僕はまだ自覚していない。
第十七話へ続く。
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