怒号。
それが自分に向けられているものだとしばらく気付けなかった。休日の十時ちょっと、静寂さだけが売りのホテルにおよそ似つかわしくない光景に脳が着いていかなかったのだ。ましてやそれが自分に向けられているなど…
洗濯物のチェックのために踊り場へ行く最中の出来事である。振り返るとヤツがいた。ガタイのいいオッサンがこちらに向かって何やら吠えている。
ようやく現実との焦点が合った僕はその内容を理解する。
「おいてめえ、朝っぱらからうるせえんだよ」
「はぁ」
何を言ってるかは理解できたが、なぜ僕に言ってるかは理解不能だ。
だがオッサンが出てきた部屋を見て合点が行った。階段の目の前、それはつまり踊り場を行き来する人々の足音を四六時中浴びる場所。先の「殺すぞ」事件がどれぐらい知れ渡ったかは定かではないが、この頃みんな洗濯物の取り出しに神経質になっていたんじゃないだろうか。タイマーの無い洗濯機、必然目視でのチェックが必要となり……それはエンドレスな踊り場と廊下の往復の始まり。いくら絨毯が敷かれているとは言え音も気配も伝わり続けるのだろう。
その影響を最も受けたのがこのオッサンなのだとすれば…
「てめえだろ、さっきから何度も洗濯機チェックしてんのは」
「いやいや……」
気付かなかったが、この言い方だともしかしたらオッサンはドアの隙間から何度も行き来する人を確認していたのかもしれない。実際この時、僕が現在洗濯中の衣類をチェックしに行ったのはまだ二回だったが、二回でも多いと言われればそんな気もするし、たかが二回という気もしないでもない。
そもそも今は「朝っぱら」なのだろうか。もうすぐ十一時になろうという時間である。するとこのオッサン、単に色んな人の足音に対する不満の全てを僕にぶつけようとしているんじゃないだろうか?まだガキだし御しやすいと判断されただけじゃないだろうか?
回数の多寡はともかく、現実に音を煩く感じられたのであれば謝る一手なのかもしれないが、突然向けられた敵意、それも勘違いやトバッチリかもしれないと思うとそんな気は失せていて、何より若さがこの状況で素直に応じる事を由としなかった。
「あのさ、俺洗濯機行ったのまだ二回なんだけど」
「ああ?なんだてめえこ×△□……」
オッサンは既にヒートアップして何を言ってるのかわからない。それにしても冷静に考えれば廊下で二人が言い争いをしているのだから誰かしら様子を見に来てもいいだろうに、まるで誰もいないかの如くホテルの静寂は守られている。
(まずいな)
言うまでもなく期間工として働く以上、社内での揉め事はご法度である。それは今は亡き野呂さんからも何度か聞かされていたし、一般常識で考えても当然の事だろう。
ここでオッサンに付き合って喧嘩にでもなろうものなら、せっかくレールに乗り出した期間工ライフが危ういし、そうじゃなくても現実目の前に迫った暴力の危険もある。
よくよく見ればこのオッサンの体格が良すぎる。僕も身長は176cmほどあって決して小さいほうでないが、その僕が見上げるぐらいオッサンの身体はでかく、そして筋肉質だった。角刈り頭にエラの張った四角い輪郭、そして細い目などちょうど高校時代に好きだった格闘ゲーム「KOFシリーズ」の投げキャラ、大門五郎を彷彿とさせる大迫力で、よくもまあこんなのに一歩も引かずに言い争いなどしたものだと後々後悔…いや、今のは少々見栄を張った。
実は早い段階でこのままではヤバイと思い、誰かしら様子を見に来てくれる事を期待していしていたのだが、前述したとおり誰一人出てくる様子もない。このまま胸倉でも掴まれた日にゃあ投げられると思い、僕は咄嗟にこう出ることにした。
「だから俺じゃねーって言ってるでしょ。って言うかアンタ、何言ってるかわかんねーし」
「はあ?どう見てもてめえじゃ……」
「埒開かねーから今受け付けのオッサン呼んでくるから待ってろよ。そこで説明すればいいだろ」
「あっ、おい」
「いいか?逃げんじゃねーぞ」
捲くし立て、そそくさと階段を早足で下る。追いかけられたらどうしようと思ったが追ってくる様子もなく、一階に辿り着いた僕は急いで受付のオッサン(支配人?)へと事情を話し現場へと着いて来てもらうことにした……のだが、
「いないね」
「いないですね」
オッサンは既にそこには居らず、しかし部屋はわかっているため第三者という味方を得た僕は強気にオッサンの部屋をノックして呼び出す。呼び出す。虎の威を借りる期間工の図だ。
「出ないね」
「出ないですね」
気付けば洗濯は終わっていた。細心の注意を払いながら衣類を抱え抜き足で廊下を戻り、以後は何事も無かったようにホテルにまた静寂が戻った。
それから二週間後の事だ、そのオッサンが工場内で人を殴って首になったと聞かされたのは……
受付のオッサン曰く、前々からトラブルが絶えなかった人だそうで、或いは一歩間違えれば殴られていたのは僕だったかもしれない。とんでもない男と言い争いをしていたものだ。
「期間工は変なヤツ多いから気をつけろよ」
図らずも、野呂さんの声が脳内で木霊していた。
第十一話へ続く。
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