「おーい、戸邊くん?野呂やけど」
ドンドンドン。ドアを乱暴に叩く音が聞こえる。見なくても声の主はわかっていた、名乗ったとおりの野呂さんだろう。
「お~、こっちもなかなかご立派なお部屋やな。なんや、想像以上やったなココは」
笑いながら、野呂さんは断りもなく勝手に部屋に入ってきた。彼は先ほど工場で一緒に健康診断を受け同じ部署に配属された、言うなれば同期の人間である。
(それにしても─)
彼のいうココとは、果たしてホテルの事なのか、はたまたこれから働くホンダの事なのか。
前日にビジホ入りしての今日、言うなれば初出勤だったのだが、徒歩10分ほどにある工場内施設の一角で僕らは入社式(と呼んでいいのものか)を受けてきたところだ。会議室らしき広い部屋には何百と言うオッサンがわらわらと集い、これらは皆期間工として入社した人々なのだろうか。
健康診断を終えるとそのまま配属先を振り分けられ、作業着、安全靴、それからIDカードなどを支給されると各自それぞれの部署の責任者に連れられ工場内の施設を案内される。連れられる先は玄関から各自のロッカー、食堂、そしてこれから働く自分たちの工場、持ち場…
この本田技研浜松製作所には大きく分けて二つの工場があって、一つは四輪工場。これは主に四輪車のエンジン部分を開発しているらしい。
そしてもう一つは二輪工場で、これは中・大型の二輪車を組み立てていく工場だった。僕と野呂さんはこちらに組み入れられた。この日入社した期間工がどういう条件と割合でこちらの工場へと振り分けられたかはわからないが、この二輪工場内にもさらに何十という部署があって、その中で僕らの所属する「S481組立てモジュール」に今回配属が決まったのは全部で四名。ちなみに隣はS480、つまり…それだけ部署があると言う事なのだろうか。
新人は僕、野呂さん、市川さん、原中さん。みな僕より年上だろうが、正確な年齢はわからない。
この日は今後自分が担当する作業を各々しばらく見学した後散会し、翌日より工程訓練という作業に必要な講習を受ける事となる。工具の使い方はもちろん、安全面での教育や現場のルール。今後ここでやっていくための教育を何日かかけて行っていくのだそうだ。
インパクトと呼ばれる、これから長い付き合いとなる相棒。電動ドリルに似たこの凶悪な工具でひたすらボルトの締め付けを行っていた記憶しか残っちゃいないが……
「ところで、どや戸邊君?引っ越し祝いと親睦を兼ねて、一杯」
野呂さんがお猪口をくいっとやるようなジェスチャーをしながら破顔する。その様を見て、疲れも忘れしみじみと自分が今社会人としてこの地に立っているのだと感じ高揚した。
そのがっしりした体格とはアンバランスな童顔が絶妙なギャップを生むのだろう、何を言っても嫌味を感じさせない愛嬌のある人というのが第一印象であった野呂さん。見た目通り何事にも物怖じしない性格なのか、初日である今日もまだギクシャクしている新人組の中で一人明るく関西弁でまくしたてていた。中でも僕が同じビジネスホテル住まいと知ると、途端に気安く話しかけてくるようになった。今にして思えばあの面子の中では一番の安牌に見えた事も大きかったのだろう。
とは言えそれは僕にはありがたかった。右も左もわからぬ土地で、とにもかくにも話し相手が出来た事は精神的に非常に大きい。
「あ…いや、その」
さて、そのありがたい人からの「親睦会」の誘いに僕は言いよどんでいた。野呂さんと飲みに行くのが嫌なわけではなかった。実のところ現状たったの二万円しか持ち合わせていなかったのだ。その二万円にしたって断腸の思いで親から借りたお金だ。専門学校を中退し、さらにお金を借りるなど……それも、極限まで遊ぶための種銭作りのために働きに行くための借金である。あまりにもバツが悪かった。そこまでして得た金も既に一万円ちょっとを旅費や準備金として使ってしまっている。
そんな重い性質のお金だけに飲み会などで散在するわけにもいかないという想いがある。何よりビジネスホテル手当ての日当千円は当然給料日にまとめて支給となるのだから、これはそれまでの食費でもある。
「なんや、変な心配しなくても今日は俺が奢ったるわ」
そんな僕の心のうちを察したように、野呂さんが笑いながら促す。その一言で僕はずいぶんと救われた気がする。新しい生活で初めて出来た同期の……友人と呼んでいいものか、そういう人間の誘いをさっそく断る羽目にならずに済んだ安堵である。
その夜僕は期間工についての知識を思いのほか多く仕入れる事が出来た。聞けば野呂さんは期間工を何度か経験したことがあるそうで、今回のホンダ技研は初めてなものの、その他トヨタや日野と言った大手メーカーで経験してきた期間工事情を赤裸々に聞かせてくれる。
その中でも特に気になったのが、社員と期間工の間には壁があるという事であった。まだホンダは入ったばかりでわからないというものの、直接我が身に降りかかりそうな問題はやはり不安が過ぎる。それから他には寮で黒魔術をやってたヤツがいただの、脱走者は初めの一、二週間が山だのと、初めて触れる紛れもない“実社会”の話がそこにはあって、その全てが新鮮で面白かった。野呂さんの喋りがうまかったのもあったかもしれない。
「とにかく期間さんは頭おかしいヤツが多いからな。気ぃつけえや」
野呂さんが脱走したのはそれからきっかり二週間後の事である
第五話へつづく。
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